ニキビの勝負はここです
分子生物学を構成する諸要素の独立した研究者アメリカ「研究者の競技場」主にヨーロッパの独立した研究者NlHグラント年齢、性別、人種、国籍による差別がないピァレビューシステムその後PCR技術(ポリメラーゼ・チェイン・リアクションDNA増幅技術)はだれがいつ開発したのかという裁判がありました。
意見を聞かれたときにCは、PCRでノーベル賞をもらったKm(1991年ノーベル化学賞)にはあまり高い評価を与えませんでした。
Cが主張したのは、PCRは実は1960年ぐらいにHC(1968年ノーベル生理学医学賞)がCの研究室に滞在したときにすでに同じような実験のデザインを考えていた。
だからKmの実験はあまり目新しくないと言ったわけです。
さらに組み換えDNAが遺伝子工学として技術化されるときに、DNAを切断していろいろな遺伝子をクローンするというのは、研究としてはあまり大切だとは彼自身は思っていなかった。
PCRや弟子のP・bのクローニング技術に高い評価を与えなかったことにも、基礎科学を重視するCの性格が表れています。
ただおもしろいことに、遺伝子工学でノーベル賞を取ったP・bも、Cと同じく、技術としてのDNAテクノロジーの重要性は認識したけれども、実はそれが産業的なインパクトを持つとはあまり考えなかった。
これがバイオテクノロジーの1つの前史です。
◇Yそれはいつごろですか?。
◇A1970年代から75年ぐらいまでです。
Cは80歳になりましたが、60歳ぐらいまで強調していたのは「サイエンス=世界の共通語である」という原則です。
1977年ごろには、アメリカの研究者の数が非常に増えました。
そのために、研究者のグラントの採択率が落ちてきて、これはがんに効く研究であるとか効能書きを書かないとグラントが当たらなくなったので、彼はそういう傾向に抗議した。
私が覚えているのは、1978年に全米の科学者を代表してK大統領に「アメリカの強さは、おもしろいと思ったことをサポートしてきたことではないか。
それを応用の可能性を述べないとダメとはなにごとだ。
こういう傾向はアメリカを弱くする」と言ったことです。
しかしバイオテクノロジー産業の発達に伴ってCの認識にも変化が表れてきます。
その後彼は「産業界がいかにバイオテクノロジーに興味を持ち、その可能性に期待していたかということを、開発者の一人である私自身は見落としていた。
「ヒトの遺伝子の産物であるヒトのタンパク質が大腸菌で大量に生産できるとは、自分の予想を超えていた」と言っています。
大学よりも遺伝子工学の産業化を始めたC社とかJ社などのベンチャー企業が初めて大腸菌の中で大量生産に取り組んだという背景があります。
日本でのバイオベンチャーの立ち上げは、アメリカとはかなり違う形ですが、アジアの国々とも違っています。
なぜなら日本には基礎研究の前史と蓄積があるからです。
そのためアメリカ型の構造をもってきても日本にはそのままでは入りにくい感じがします。
もっとも、基礎研究の蓄積がないほかのアジアの国々は、アメリカ型の発展に合わせてバイオテクノロジーの領域に新しく入ってくることができるでしょう。
◇N同感です、1975年を境に、アメリカでは大学に対する、特にバイオに対する認識が一変した。
自分たちの学問、特に分子生物学の成果が直接産業に役に立つということがはじめてわかった。
同時に、企業のほうも同じ認識でやはり大学の先生方の知恵を借りたほうがいいだろうと考えた。
要するに、相利共生の要因があった。
ほんの20年ちょっと前のことですが、それまでは日本と同じように、アメリカの先生も産業界に学問を売るということで、あまり公表しなかった。
だから似たような思想だったと思います。
それが急に目覚めたわけです。
◇Aそのころ、アメリカでも化学を基礎とする伝統的な形の製薬会社が主流でしたし、日本でもそうでした。
おもしろいことに1957年にCが日本に来て驚いたのは、古典的なバイオテクノロジーは日本のほうが進んでいたことです。
発酵工学とか大規模培養なんてアメリカでは行われていなかった。
これはすごい、アメリカはむしろ遅れている、と感じたわけです。
そういう状況の中で、Cはアカデミズムの立場からかなり自由な研究を強調してきた。
彼が大腸菌の能力を過小評価しすぎたと言いましたが、同時に、この技術が応用に役に立つことがわかって、企業がどんどん入ってきて、あまり基礎的な開発に携わっていない人が先にリーダーシップを取って成果をあげた。
すると研究者のほうは、我々がずっと研究してきたのに何もメリットを受けられないのか、それはアンフェアだという感覚をもって、応用にも積極的に参加しようという動きが出てきました。
しばらくしてCが言った言葉は、「私は同僚がビジネスに非常に優れた才能をもっていることに気がついた。
それは驚くべきことだ」というものです。
自分の共同研究者たちが会社をつくったりビジネスをするのにこんなに興味を持って熱中するとは自分はとても思わなかった、というわけですね。
さらに若い世代の研究者になると、自分でどんどん会社を起こすという局面が出てきました。
ですから、1975〜80年の間にかなり大きな変化がアメリカの研究者の世界に起こった。
それが日本では全然起こらない。
◇Y発酵技術では日本は世界に冠たるものを持っていたわけですね。
◇N1957年に東京で日本学術会議の主催でT大医学部生化学のKd先生が会長をされた国際酵素科学シンポジウムがあり、そこで私もCと会いました。
まだ若くてすごい美男子でハリウッドの俳優が来たかとびっくりしましたが、そのとき、いまA先生が言われたように、「日本はすばらしい国だ。
発酵がこんなに進歩しているとは知らなかった」と本当に驚嘆していましたからね。
◇Yそのレベルがあって、なぜ日本はこのような状態になってしまったんでしょうか。
◇N産業界は先行していた。
裏づけの学問はもちろんしていたんですが、脱皮ができなかったということですね。
伝統が継承されなかった戦後村社会の呪縛。
◇Aしかし戦前の日本の学者はベンチャー精神を持っていたのではないか。
現在のいくつかの製薬会社は、今世紀の初め、TmやT大教授のSzのような人たちが直接会社を設立して出発したのではないですか。
いまは非常に起こしにくくなっていますが、明治20〜30年ごろは、ある程度研究したらそのシーズをもとに、かなり早い段階で製薬会社をつくったのではないか。
「A」みたいなところも、ある意味では学者がパイオニアとしてかなりの仕事をしたのではないかという感じがします。
そのあたりはどうなんでしょうか。
◇Nいちばんいい事例は、戦前のOm先生のR研究所です。
これが日本のベンチャーのはしりだと思います。
ペニシリンまで製造していたことからもわかるように、R研究所自身はベンチャーなんです。
管理は国ですが、理研コンツェルンという大産業集団をつくった。
そうした先例から見ても、日本でベンチャーができないわけではない。
それがどうしてこうなってしまったのか考えないといけない。
過去にできていたものが、現在なぜ引っ込んでしまったのか。
発酵学とかいろいろな基礎や技術が日本にかなりあったのは確かです。